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 ★ 競艇年表 ★ .


  競艇史を語る時、昭和の時代を背負って走った「艇王・彦坂郁雄」の名を抜きでは語れないでしょう、数々の記録を作り、沢山の思い出を作ってくれた、「彦坂郁雄選手」の全記録は別に掲載しています。このコーナーでは彦坂選手は別格で取り扱っていますが、同時代にモンスター野中和夫選手がいて、ターンの魔術師・岡本義則選手、勝負師・北原友次選手、華麗な舞の加藤峻二選手らのスーパースターも廻りにいた事も忘れる事は出来ません、彼らの残した昭和史を今後、今村豊、植木通彦、服部幸男らが平成史としてどうやって作って行くのかはこれからです。
年代トピックス    近代競艇史
昭和
26年
プロローグ笹川良一は巣鴨プリズンに満3年と12日の収容中に得た考えに基づいて、モーターボート競走を公営競技として実現するため、モーターボート競走に関心を寄せる人々と協力して「モーターボート競走法案」を作成、運輸省に協力を求めた。社会党の反対で一度は否決されたが、26年6月5日、第10国会の最終日に衆議院本会議で再審議され、可決となり、昭和26年6月18日モーターボート競走法が公布、(日本財団30年の歩みより抜粋)即日施行。「選手養成」を実施する。登録番号11・鍋島敏亀選手(滋賀)が選手第一号でした(昭和35年11月引退)
昭和
27年
祝・競艇誕生4月6日長崎県大村市の大村競艇場で初の競艇が開催された。入場料20円
☆第1レースはB級ランナー(選抜)1500m
1着賞金 8,000円以下A4,000、B2,000、C1,000 で大村市長賞レースで開始された、この初開催のオープニングレースを飾ったのは登番47、山下勇選手(大村)で、この開催の優勝戦も飾ったそうです。尚、2Rはハイドロ戦でした。
この年、琵琶湖養成9期の「神様・倉田栄一」が12月児島競艇でデビューした。
尚この年開催された所は、大村競艇場・津競艇場・芦屋競艇場・若松競艇場・児島競艇場・丸亀競艇場・尼崎競艇場・びわこ競艇場の8ヶ所。
昭和
28年
ダービー開催第一回日本選手権ダービーが若松競艇場で実施、初代チャンピオンは「友永慶近選手」このダービーの優勝賞金は20万円でした。
昭和
29年
基盤の整備各競走場の養成選手も徐々に増え登番も1000番台をこえるまでになり、各地で周年記念競争など実施された、当時の記念優勝賞金は2万円、は高かったのでしょうか?地区選手権の走りとなった「第1回九州地区選手権」もこの年開催された。
昭和
30年
MB記念・全国
地区対抗戦開催
この年から笹川賞の前身である、全国地区対抗戦が児島競艇で実施され、初代チャンピオンに「金藤一二三」が、一方大村でMB記念も開催され、ハイドロ競技は「真島勝義」、ランナー戦は「豊島清」がそれぞれ優勝した。
昭和
31年
住之江競艇この年6月住之江競艇場が狭山から現在の住之江へ移った、この頃の実績は現在のメッカの面影もなく、競艇のメッカとしてトップに躍り出るのは5年後の昭和36年からで、この間の住之江の努力は大変なものだったとされている。
昭和
32年
一期生デビューこの年連合会養成の第一期生が5月晴れてデビューしました。顔ぶれには、「田所誠」「土師田孝之」「本田順也」など最近迄活躍していた選手もいる。9月には2期生もデビューした。
昭和
33年
江戸川ダービーこの年、第5回ダービーが江戸川競艇で行われた、8月5日の優勝戦の優勝は三津川要選手、果たしてビックの江戸川開催、又有るのでしょうか?
昭和
34年
☆彦坂デビューこの年12月24日蒲郡競艇場から一人の新人がデビューを果たす。登録番号1515番彦坂郁雄、この新人が昭和の競艇界を支えて行くとは、当時は誰も思ってはいなかった。デビュー戦の成績はDC欠CDDEADで初勝利は翌年3月1日平和島5日目8レースまで持ち越されたのでした。同年には北原友次選手・加藤峻二選手が春に、秋に岡本義則選手もデビューしています。尚、現行の得点率制度にこの年から切り換わった(それまでは1、2着率)
昭和
35年
☆彦坂初勝利デビュー44走目にして彦坂、初勝利(3月1日平和島5日目8R、19歳)この勝利から「艇王・彦坂」は数々の歴史を作って行くのでした。デビュー勝率は3.52→4.87→5.73
昭和
36年
近代競艇の

    夜明け
この年の4月に「フライング艇の舟券返還」という大胆な制度が実施され、現代の競技方式確立された。この当時のスター選手は「神様・倉田栄一」が頂点に達しようとしていた。この年6月6日蒲郡競艇で彦坂、初優勝。モータは「ヤマト60型」(20馬力)の強力エンジンの登場。
昭和
37年
恒久立法化この年の春に「恒久立法化」が行われ、競艇の基盤が確立された。選手では「艇王・彦坂郁雄」が台頭してきた年「勝手者で、無法者で、レースも何も無茶苦茶で「ムチヤ彦」といわれたが、委細かまわず彦坂は勝に行った。この年12月27日尼崎10周年で「彦坂・記念初V」*1、一方他のレースのほうも、連合会養成の若手選手が「外から外へ握って廻る全速ターン」で古参選手を面白いほど破っていった!、このターンは「ブンチン・ターン」と言われレースが大きく変わってきた。
  *1 彦坂記念初Vの再現
 @倉田栄一(三重)  《進入》
 A徳田嘉巳(東京)    CD@AEB
 B金子安雄(埼玉)
 C彦坂郁雄(静岡)    4-3 1,590円
 D森  弘文(兵庫)
 E芹田信吉(福岡)    イン逃げでした。
昭和
38年
世代交代の波「松尾幸長」「帝王・彦坂郁雄」「勝負師・北原友次」「ターンの魔術師・岡本義則」「北川一成」「小沢成吉」などこれ以降、競艇をささえた多くのスターが一挙活躍はじめた時期です。しかし勝率1位の倉田栄一の牙城はまだ強し!一方フライングの規制強化の方向へ向かい、現在の「F休み制度」も打ち出された。
昭和
39年
北原ダービー奪取この年、競輪の世界で女子競輪が廃止された、競艇界では、神様「倉田栄一」にようやくカゲリが見え始め、この年、芦屋のMB記念を勝ち同タイトルを2連覇したが、これが生涯最後のタイトルとなった。一方、新星「北原友次」が 24歳でダービーを勝って、北原ら若手の時代が現実のものとなって来た。
昭和
40年
彦坂・岡本時代時代は彦坂郁雄・岡本義則・北原友次・加藤俊二ら若手の時代が着実やってきていた、しかし、この年、芹田信吉、長瀬忠義らも全盛期を迎えて、若手の前に敢然と立ちはだかって意地を見せていた。尚、前年11月の新期から特別競争のプラス1点が実施されている。モータは「フジ」「ヤマト65B」の両立時代へ。
昭和
41年
第一回鳳凰賞現在の「内閣総理大臣杯」の前身「鳳凰賞」が3月平和島競艇場で開催された。優勝賞金150万を手にしたのは長瀬忠義選手(広島)、前年勝率1位に輝き、ダービーを勝ち40歳で黄金期を迎えるかに見えたが、9月のダービーを待たずに、8月の徳山周年の優勝戦2着を最後に引退してしまった。ファンには突然の引退だった。
昭和
42年
ダービー5艇F10月尼崎ダービーで初日12レース全艇フライングで「名人芹田信吉」を含む6人「即日帰郷」となった、この開催、最終日「優勝戦」でまた5艇フライングでレース不成立となった。一人生き残った「前川守」には40万円の金品が残念賞として贈られた。
昭和
43年
強い彦坂・岡本4月4日浜名湖競艇場が弁天島から現在の位置に移転され豪華な競艇場としてオープンした、この年、マスコミでは「彦坂・岡本時代」と騒がれ、実際、2人は群を抜く存在になっていた。
昭和
44年
悲運・彦坂無冠この時すでに艇界でトップに立っていた「彦坂郁雄」は時代の寵児となり「栄光のビックタイトル」が手中に出来ず七不思議に成っていた。ビックでことごとく彦坂の野望を打ち破るのは埼玉のKKコンビ、「金子安雄」と「加藤峻二」であり、金子引退の後は「北原友次」と「加藤峻二」のKKコンビであった。
昭和
45年
彦坂37連勝この年、世紀の記録が生まれた。彦坂郁雄が3月〜4月にかけて37連勝をやってのけた。この記録は現在も破られていない。今後も破られる事は無いでしよう。勢いをかって念願の初タイトルも彦坂は笹川賞の前身「全国地区対抗」で達成、彦坂郁雄、円熟の時、しかし岡本義則もこの年、年間最多勝171勝をマークして、この記録も現在破られていない。
昭和
46年
闘将・嗣政涙のVF禍・負傷・肝炎から戻って来た「闘将・小林嗣政」が涙のタイトル奪取(下関地区対抗)がニュース、一方「艇王・彦坂郁雄」故郷静岡を捨てて千葉に移る事になる、(裏話として恐い影を恐れての移転と言う)が
昭和
47年
ジェット「男也」夏の福岡「MB記念」を取った「彦坂郁雄」に盟友と言われた「ジェット・中村男也」が頭角を現し、時代は登番2000番台に!モータは「ヤマト70型」(30馬力)
昭和
48年
モンスター
    野中現る
この年ダービーで転覆艇を迂回してターンする「石原洋」に「勝負師・北原友次」が激しく突っ込みダービー史上に例の無い逆転劇で「北原友次」が優勝した・・・現在なら違反となる逆転であろうか?、この年「モンスター・野中和夫」が異例のスピードで頭角を現しはじめる。新モータ「ワールド80型」登場。
昭和
49年
怪物野中・暴れる前年頭角を現した「モンスター・野中和夫」が暴れまくり、「第一回笹川賞」をロケット捲くりで決め、MB記念・ダービーと3連覇を成し遂げた年です。勝率も年間トップと「彦坂かすむ」といわれました。選手生活5年目の年でした
昭和
50年
岡山ビック独占「野中和夫」がフライングで不調、彦坂との戦いで共に倒れ・この年のビックは「石原洋」「北原友次」「林通」と全て岡山勢に取られる。")
昭和
51年
無敵・野中旋風この年は野中無敵の強さで、対した彦坂は、野中を破る執念を見せたが、スタート事故で全く歯が立たなかった。野中のこの年の記録は、期勝率9.53、期優勝12回、期特別優勝8回、全て記録ずくめだった。
昭和
52年
百花繚乱競艇界この年「華麗舞・加藤峻二」がタイトル連覇して、「松本進」がダービー奪取、「艇王・彦坂郁雄」も甦り、「ターンの魔術師・岡本義則」も復活、「テクニシャン・中道善博」が「インの鬼・柴田稔」と「松田慎治」一時代を築いたスター達が活躍を見せはじめた」
昭和
53年
北原V6丸亀鳳凰賞を優勝した北原友次は通算V6とタイトル戦線のトップに躍り出た。この年物議をかもしだしたのが住之江ダービー。優勝の松田慎司、2位の後川博ともイン進入の蛇行で戒告をうけたのだ。ダービー覇者が戒告という汚点に、松田は年明けから4カ月の自粛休場を余儀なくされた、今でいう進入違反は当時の激しいイン取り合戦の蛇行進入に警鐘を与えるための「松田慎司」はスケープゴートであった。
昭和
54年
中道・笹川賞V前年後期、勝率初トップに輝いた「中道善博」が笹川賞も優勝、記念V4と大活躍、レース巧者「中道」を全国にアピールした。マスコミも「中道に大物の風格」などと絶賛した。福岡ダービーを勝った八尋信夫は「福岡天皇」の名を世に知らしめた。
昭和
55年
野中、突然引退この年6月27日驚天動地の大事件が起こった、「怪物・野中和夫」が暴力団ノミ屋との交際疑惑が持ち上がり、大阪府警西署で事情聴取を受け、その日のうち内に登録消除を願い出て受理されたのです。その後の経緯で、「もぐり金融」で書類送検され艇界復帰は完全に断たれました。
昭和
56年
野中和夫・復帰この年のダービーはKKコンビの圧勝と思われた優勝戦、このKK仲良しコンビが大死闘を演じ、村上一行が漁夫の利を得た、北原友次の飽くなき闘争本能を垣間見た思いのレースでした。昨年選手登録を消除した「野中和夫」が11月に実践復帰した。
昭和
57年
野中、F3の死闘昨年末現役復帰した野中和夫が6月桐生で痛恨のF2、続いての7月平和島28周年で3本目のFを犯し、8月の蒲郡「MB記念」は満身創痍で優出、彦坂郁雄、浅香登らを相手に壮絶な優勝争いは、艇史に残る一戦として語り継がれている。
昭和
58年
彦坂1億円?無類の強さを見せた、彦坂はこの年、笹川賞Vを含め記念9勝と圧倒的な強さを見せた、独走態勢に終始したこの年、「艇王・彦坂郁雄」の1億円フィーバーに沸き返ったが9,285万円と今一歩届かなかった。12月「常松拓支」整備違反で引退。10月16日「田中弓子」「鈴木幸夫」結婚!
昭和
59年
プリンス今村「プリンス・今村豊」が笹川賞を奪取、最年少タイトルホルダーになる」、全般にスター不振の年だった、この年芦屋競艇でオールランナー戦が復活したが、ランナーを乗りこなせる選手が少なく次第に消えて行く道をたどる。この年、事故C級から1月常滑施設改善で記念復帰した野中和夫が11月、戸田28周年で24回目の記念優勝。引退、復帰、長期F欠などを挟み、4年ぶりの記念Vは、関東で初めての優勝となった。
昭和
60年
野中和夫復活V野中再起後初ビックVは下関「MB記念」、先行する、「彦坂郁雄」を「津田富士男」との連合でくだし優勝を飾る。この年最高齢選手「勝本忠彦選手」が引退67歳。彦坂悲願の「ダービー制覇」、望月重信、松田慎司相次ぎ引退、期待の新鋭「北方正孝」大事故で選手生命断たれる、この年も悲喜こもごも有りました。3P戦やランナー戦もこの年各地で開催されました。平和島で進入固定レース開催(4/19)・廻り直しルールの改正もされた。本年新設されたMB大賞は彦坂郁雄が3連覇した。
昭和
61年
グランプリ
 競争誕生
  彦坂一億円
    達成
前年場外舟券売り場開設が認められ、8月に丸亀の場外がオープンした。この年の超目玉は暮れの賞金王が破格の優勝賞金3000万円と云うビッグレースが住之江で実施「艇王・彦坂」が貫禄勝で第一回覇者に成ると共に初の一億円レーサーが誕生した、彦坂はこの年若松34周年を優勝して全24場の特別競争を制覇も達成した。他にこの年より新鋭王座が特別競争に格上げ、尼崎では4月26日より展示タイムの公表を始めた、これが今では全国当たり前になっている。
昭和
62年
安岐真人初V古豪「安岐真人」が選手生活23年目、42歳でビック(賞金王)をゲット、長かった無冠の帝王を返上した、一方「安部邦男」「高峰孝三」「石黒広行」「渡辺恵」ら著名選手が整備違反規定で相次ぎ引退、数年前から始まったこの風潮は益々エスカレートして、「艇王」の元へも忍び寄っていた。この頃から「持ちペラ」の導入が検討され出している。
昭和
63年
昭和を走った

  『彦坂引退』
「艇王・彦坂郁雄」は9月「桐生競艇」で整備規定違反により処分され、事実上引退に追い込まれた。この年、持ちペラ制も導入され、体重の50kg制限時代も始まり、グレード制導入と昭和の時代最後の年は、競艇も一時代の終わりを示す事になる、国光選手・蒲原選手・江川選手ら3選手の起訴問題に始まり、艇界の不祥事、江戸川競艇の不正事件も発覚、激動の昭和史の終焉でした。
平成
1年
群雄割拠

    大混戦
前年の彦坂引退と時代は平成に移り、本年のビッグは小粒のビッグとなった、平成時代の混乱を象徴するかの幕開けの年となった。女王・鈴木弓子もこの年2月で引退した。一方「平成の艇王」を狙う服部幸男が浜名湖からデビューした、また「神様・倉田栄一」が3000勝達成も話題をさらった
平成
2年
1億突破4名彦坂ショックから立ち直り競艇の売り上げ実績は急成長、賞金もアップされ1億円レーサーが4名も同時に誕生した、高山秀則・今村豊・新井敏司・野中和夫のトップレーサー達である。超ベテラン岡本義則も特別Vの最年長記録を次々に塗り替え元気なレースぶりはファンを魅了した。
平成
3年
スタート練習廃止・

西田ビック連覇
この年はレース内容に大きな変革のあった年!@スタート練習の廃止、これは長年、当然の様に眺めて来たファンの度肝を抜いた。A優勝戦が4周から他のレースと同じ3周に変更された。長年親しんできたファンには面食らう出来事の連続でついていけないと言う声も聞こえた。関東期待の「西田靖」選手が当年より開催された、「グランド・チャンピオン」を制し、勢いMB記念も連覇した。この年、過去最高の売上2兆2,137億円を記録し、公営競技全体の売上8兆9,389億円の25%を占めた。
平成
4年
神様・倉田引退

服部・最年少V
この年、不滅の記録を作り上げた「競艇の神様・倉田栄一」引退し、競艇の一時代が終わり次の時代を迎えようとしていた、この年引退した選手100名近く「金藤一二三」「三津川要」「矢尾一豊」「田中康宣」「小川宣昭」「熊本朋郎」「山下攻二」「永谷清治」「小樋修」ら古豪が沢山ふくまれていた。一方「新鋭・服部幸男」が「今村豊」の最年少ビックVの記録を更新する。彼の名付け親が「彦坂」だと言う話は本当なのであろうか?、気合の入った時の「服部幸男」はまさに「平成の艇王」だ。この年よりデカペラが出現、時代は「ペラ全盛」になり、待機行動違反ルール全国統一される。
平成
5年
新鋭・植木登場3000番台の若手の台頭がめざましく、「新艇王・植木通彦」が総理大臣杯を初V、これより毎年ビックをゲットする活躍で、彦坂無き後「新艇王」となるか注目される。
平成
6年
北原3000勝この年古豪「北原友次」が3000勝をあげた、ビックは新旧双方の選手が金星をあげ、時代の移り変わりの戦乱の様相を呈していた年、時代は、ペラ全盛で「ペラ戦争」の激化はペラの善し悪しで勝率を大きく変化させる時代に、もはやベテランも「モンキー」を余儀なくされる時代に突入した。
平成
7年
植木の賞金王この年のG1のトップを切って行われた、尼崎開設42周年は、5日目の早朝おそった「阪神大震災」によって4日間で中止打ち切りとなり、7月18日の徳山42周年優勝戦は台風3号の為9レース以降、打ち切り中止となった。記念が2開催も途中打切りとなる奇妙な年になった。この徳山中止の17日を追うように、競艇生みの親「笹川良一会長が死去」(7月18日午後9時、急性心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去した。享年96歳)これもなにか・・・・。本年の一番の戦いが、暮れの住之江賞金王決定戦で演じられた、「植木通彦 VS 中道善博」のし烈な優勝戦はターンごとに首位が入れ替わる史上希に見る大激戦、艇史に残る大一戦は「植木通彦」が勝利した、時代は完全に「植木時代」の到来となる。この年連勝単式が4レースからになった。
平成
8年
☆植木2億円!
  上滝、
ダービー制覇
この年「植木通彦」選手が夢の2億円を記録した。何故かビックの取れない「上滝和則」がやっと、福岡ダービーで「植木」を逆転で破り初優勝、これから何本制覇するか期待が集まる。余談になるが、かの「彦坂」がこれから将来を背負って立つのは「上滝」だ!いったとか?果たして真相は・・・ ☆ 競艇の未来形として進入固定レースが実施され、東都2場は、この年の後半の一般レースが進入固定レースで実施され、全国に波及していった。
平成
9年
滅び行く老兵この年「岡本先生」こと「岡本義則」が引退、主流は3000番台の時代に完全に突入、暮れの賞金王も、3000番台以外では、「今村豊」が、かろうじて参加と時代は完全に若手主流に変わってしまった。この年桐生ナイターレースが開催され好評を得た。
平成
10年
関東旋風吹く西高東低の冬型の勢力図が続いた競艇界に関東勢の激しい巻き返しが見られ完全に関東勢に主役を奪われた一年となった。また「山崎智也」「濱野屋憲吾」「太田和美」と言った次世紀を背負うニューヒーローが次々とSGを奪取、全速モンキーターンの新しい競艇が確立される年となった。
平成
11年
松井繁が
  連続MVP
SG競走は春の総理杯が今垣光太郎、笹川賞・大嶋一也、グラチャン・濱村芳宏、オーシヤン・田頭実、MB記念・山本浩次、ダービーは山室展弘と初タイトル組が名を連ね、戦国時代となった、戦乱の年を制したのは、競艇王で本年V2と成った「今垣光太郎」で、最後をしめたのは、賞金王をゲットしてMVPに輝いた「松井繁」だった。松井は2年連続の受賞で、競艇界の頂点を極めた。又「山川美由紀」が42年ぶりと言うG1記念で優勝をかざった。一方、一般戦で足立保孝(大阪)が21年6カ月、76回目の優出で初優勝と珍しい記録も生まれた。1900年代最後の年は大混戦の末、幕を閉じた。
平成
12年
初の3連単登場
西島SG3連覇
20世紀最後の年、ミレニアム2000年のSG競走は関東勢、対「西島義則(広島)」の様相を呈した。春の総理杯が矢後剛(東京)、笹川賞は熊谷直樹(東京)の後、西島義則(広島)の脅威のSG3連覇(グラチャン、オーシャン、MB記念)その後、戸田ダービーを池上裕次(埼玉)、競艇王CCは濱野谷憲吾(東京)、そして最後の賞金王決定戦は、市川哲也(広島)が奪取、関東勢、対広島勢゛の熾烈な戦いで20世紀を締めくくりました。この年公営競技初、夢の3連単が登場し話題をさらいました。一方4000番台の選手の活躍も目立ってきました。
平成
13年
「市川哲也」
パーフェクト達成
21世紀に入り、新しい時代の競艇は4000番台の台頭と供に始動した。本栖湖の新人研修センターから、九州の大和研修所に養成所が移り、大和卒の新人が登場、活躍が始まった。
この年、長期間選手会長を勤めた「安岐義晴」が70歳を区切りに勇退、新会長に人気選手の「黒明良光」が就任した。
SGでは「市川哲也」が多摩川のMB記念で20年ぶり(昭和57年の安部邦男以来)パーフェクト優勝を飾った。
平成
14年
「植木通彦復活
  3冠達成」
3連単の導入に続き、スタート練習が「スタート展示」と名称を変えて復活した。一番強いと噂の「西島義則」が地元宮島のグラチャン優勝戦で痛恨のフライング切り「ツキ」に見放されたか事故点オーバーで8項にかかりB2級落ちと目まぐるしい変化には驚かされた一年、そんな中「植木通彦」がSG3冠と復活の一年ともなった。植木通彦の年間獲得賞金も2億8千万と夢の3億には届かなかったが、史上最高の獲得賞金となった。
平成
15年
松井がG1、8勝
桐生廃止問題
松井が、G1を8勝して、彦坂の記録に並んだ、凄い記録だが、不思議な事にSGは全くの惨劇に終わった。女性レーサーの事故死で、埼玉勢が奮い立った年になりました。3連単導入の反対姿勢の桐生競艇で存廃問題が起き、売上げ低迷に伴い、桐生市が、撤退、全国各地に、施工者の撤廃が相次ぐ事になる発端の年になりました。
平成
16年
田中信一郎
賞金王連覇。
今村豊復活V?
春の総理杯で今村豊が、12年振りのSG優勝を飾った。4000番台の田村隆信がSG2勝、田中信一郎が賞金王連覇と話題は多かった年でしたが、売上げ低迷は極限にまで達しそうな状況になってきました。福岡総理杯で、フライング続出で、売上げ激減この年の売上げは、1兆円ギリギリとなり、平成3年の売上げの、45%の水準まで落ち込み、徳山、宮島、桐生、と各地で、共同施工者が撤退、競艇事業そのものの存在まで問題化してくる事に。


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